読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

人は人、自分は自分で良いなんて言わせない

進級試験に落ちた友人がいてその友人が頑張ったんだけどなといった。それでも進級試験なのだからその道を望む者全員が合格してほしい最低ラインであろうといった。すると友人は俺は覚えが悪くて、俺なりにやってるんだよという。関係ないともいった。それじゃダメなんだ。いくらお前が努力しようといくらお前が今までで全力を尽くそうと、ベクトルを間違えてしまってはもとのこもないのだ。周りを見渡せ。見渡して見据えた後に動け。

これはどんなときであろうと当たり前だ。他人とは違うのは当たり前だ。ただ多くの他人がしていることに合わせなければならないことだってある。赤信号で止まらなければならないのを他人と違うと言って渡るのか。違う。履き違えるな。人は人、自分は自分。この言葉の汎用性は思っているほど低くはない。だからと言って境界線を滲ませたままではいけないんだ。

見透かした始末はきちんと行え

ふと人を観ることをやめた事がある。それは直接相手を見る事ではなく観察することの観るだ。性悪説云々とは思わないが醜悪な気持ちを持つことは誰にでもある。嫉妬や欺瞞から生まれたりする。

そんな気持ちを見透かしてしまう人がいたりする。そんな目でみて分かるだの。態度で分かるだの。それはそれで仕方がない。その思っていることが正しいか正しくないかは別として汲み取ってしまうことは意図的でなくてもしてしまう。

ただそれをどうするかは人による。汲み取った思いを相手に伝えること。結局君はこう思ってるんでしょ。そうしたいんではないの?

なんて図星なんだけどまだ思いが固まらない渦中で言われると気持ちが悪いのだ。それは図星を突かれたのではなく自分の思っていることを他人に外に出される事が大きいのだ。それが先述した醜悪なものなら尚更なのだ。外に出すべきではないと分かっているのに他人に出されるのは言葉の凌辱そのものだと思う。

その経験上人を観ることを一時止めた。止めざるを得なかった。自分がしてしまわないかが恐ろしくて。立ち直るまで時間がかかったし人を観る目がなくなった(薄くなった)。

けどそれでいい。自分にした奴は今でも憎いがいい気付けになったのかなと舌打ちしながらに思う。

嫌いという仮面

お互いに嫌悪な仲の二人がいる。今も二人は嫌悪なままだ。でも二人には優しいところや憎めないところがある。二人の間では気がついていない事を知っている。たぶん二人がお互いの優しさや不器用さを知ったら嫌いになれないだろう。

伝えようとしても信じてもらえないだろう。一度嫌いになった人のイメージを変えることはとても難しい。互いの粗しか見えなくなりがちだ。決して他人事には出来ない。

これを解決するのは、ふとした瞬間にどちらかが気付くのを待つのが得策だ。どうあがいても第三者が取り入ろうとも相手への嫌悪のイメージが消えることはないからだ。

相手の優しさを一瞬でも見ると粗だと決め込んでいた思い込みがガラガラと音を立てて崩れていく。

子供の頃の素直な「ごめんなさい」は出来なくても良い。それでも優しさに触れたり見つけられるような心と目を養っていければ変わっていけると思うし変わってほしいし変わりたいな。

Twitter

嚼 (@sui_sasakure) https://twitter.com/sui_sasakure?s=09